査読に関する理想と現実

 

論文を学術雑誌に投稿すると、必ず査読(レビュー)という試練にさらされる。これは、雑誌の編集者(エディター)が23人の専門家を指名し、投稿された論文が雑誌に掲載される水準にあるか否かを判定させるものである。投稿した側にしてみれば、試験を受けるような心持である。レビューの結果が知らされるのは、通常1ヶ月から2ヵ月後である。これをパスするか否かは、天国か地獄かの隔たりがある。パスさえすれば、少しの書き直しや追加実験を要する場合もあるが、論文は、自分の手を離れ、公表される道を歩みだす。したがって、論文に書かれた研究成果は、新しい発見や事実、正統な論理の展開として受け入れられていく。また、雑誌に掲載されることにより、初めて、研究成果としての価値が生まれ、研究者の業績として認められ、評価の対象ともなるのである。このような価値判断の是非に関する議論は、別の機会に譲りたい。複数の査読者(レビューアー)のうち、一人でもが掲載に値しないと判定すると、地獄である。別の雑誌に投稿しなおすという道もあるが、同様の批判にさらされて、再び却下(リジェクト)されるかもしれない。このサイクルを繰り返していると投稿論文が日の目を見るまでに、1年や2年はあっという間に過ぎてしまう。しかも、研究は常に競争にさらされている。もたもたしている間に、よく似た論文(さらにはほとんど同じ内容の論文)が別の研究者により発表されることがある。このような事態になると、投稿しても、既に発表されたことと大きな違いがないというレビューアーの判断が下され、いよいよ論文は日の目を見なくなり、最悪の場合はお蔵入りしてしまう。論文を投稿した段階で、投稿者本人は、一通りの研究を済ませたつもりになっているので、次の研究テーマに取り掛かっていることが多い。リジェクトされるとこれをストップし、エネルギーの多くを再投稿に費やすことになる。したがって、再投稿は、研究者にとっては非生産的である。リジェクト再投稿研究の停止業績の低迷という悪循環に陥ってしまう危険性がある。

 しかし、リジェクトは、悪い結果をもたらすとは限らないことに注意するべきである。研究者、とくにチームのリーダーは、人から学ぶ機会が少なくなるものである。レビューアーのコメントの中には、書いた本人が気づかなかったような議論がなされていることがある。そして、論理の展開に落とし穴があることが指摘されている。そのような議論をクリアするために、追加実験を行い、実験結果を見直すと、新しい発見が生まれてきたことを経験している。また、確実な論拠を得て、論理の展開がしっかりしたものとなり、論文の価値が高まっていくのを実感することがある。レビューアーの中には、ここまで結果を出せば論文になるよと、到達目標を提示してくるケースがある。このような到達目標の多くは、研究者にとり、難度の高いものである場合が多い。「それができれば苦労しない」というわけである。しかし、ここで一念奮起をしてみると、目標を絞っているものなので、意外と短期間にブレークスルーしてしまうことがある。そうなるとレビューアーさまさまである。このような「良い」レビューアーは、まさに教師である。リジェクトという高い授業料を払う価値があるものでもある。

 ある程度の研究歴を持つようになると、今度は、自分がレビューする立場になる。前述のような経験を踏まえると、レビューアーの責任の重さというものを強く感じ、良きレビューアーでありたいと願うものである。では、どのようなレビューが良いレビューなのだろうか。私は、以下の三か条を提案したい。

(1)    論文は、研究者とレビューアーの共同作品である。

(2)    レビューアーは、研究者の教師である。

(3)    レビューアーは、科学研究の発展を心がけなければならない。

 

レビューアーのコメントの中には、ちゃんと論文を読んでいるのかと疑われるようなものが往々にして見受けられる。つまり、いかにも面倒くさそうなのである。面倒くささのあまり、「英語が悪い」という一言でかたづけてしまっている場合すらある。このようなレビューは、非生産的である。きちんとレビューできないのであれば、レビューを引き受けるべきではない。第一条は、論文として完成するには何が必要かということを具体化させることを求めている。論理の展開がフォローしにくければ、どの様にすればすっきりするのか。論理の展開のどこに欠陥があるのか。論文が読者をミスリードするものではないか。論文の共同執筆者であるとともに責任を分かち合う立場でレビューすることを勧めている。第二条の「教師」とは、レビューアーの経験や見識がレビューに反映されるという意味である。レビューアーの研究に対する姿勢、世界観を伝えるにあたり、レビューを発信の機会と捉えてみてはどうだろうか。レビューを通じて良き研究者を育てることができるのである。投稿されてくる論文の中には、革新的な内容のものが含まれていることがある。このようなものは、既存の知識や論理の延長では判断できないので、その重要性が見落とされる可能性がある。第三条は、これを戒めたものである。すなわち、既存のものさしを常に疑いながらレビューすることを勧めている。そして、このような革新的なものを拾い上げて、論文にすることができたならば、まさにレビューアー冥利に尽きるというものである。

 この三か条は、自分がレビューするときの心がけであると同時に、このようにレビューしてくれれば、という希望でもある。しかし、「理想のレビュー」は、多大のエネルギーを要する仕事でもある。私は、論文には、レビューアーの名前を掲載するべきであると考えている。このことにより、レビューアーも論文の責任を分かち合っているという意識が浸透し、レビューの質が高くなることだろう。科学研究の発展を支えているのは、良きレビューアーたちなのである。

 

オフィスにて